先日、門徒さんの家へお参りに伺ったときのことです。
法要が終わりご家族とお話しをしているとき、小学生くらいのお子さんが「お経を聞いていたら、何回も自分の名前を呼ばれた気がした」と話してくれました。
名前を尋ねると、「ゆうた」君とのこと。そのときはお経の中に『ゆうた』という言葉があるかどうかすぐに思い浮かびませんでした。
しばらく考えてみると、『仏説無量寿経』の四十八願文に、「百千億那由他」とか「無数無量那由他」など「那由他(なゆた)」という言葉が何度も出てくることに気が付きました。(調べると八つの願文に出てきました)
たとえば第六願には、「設我得仏、国中人天、不得天眼、下至不見百千億那由他諸仏国者、不取正覚(もし私が仏になるとき、私の国に生まれた人々が、すべてのものを見通す力を得て、少なくとも百千億那由他という遠くの仏たちの世界をはっきりと見渡すことができないようなら、私は決してさとりを開きません)」とあります。「那由他」とは、計り知れないほど大きな数を表す言葉なのです。
しかし、ゆうた君には、それが「なあ、ゆうた」と聞こえたのでしょう。
その後、お父さんから「その『仏説無量寿経』にはどんなことが書かれているのですか」と尋ねられましたので、「阿弥陀さまの願いや、私たちへの呼びかけが説かれています」とお話ししました。すると、ゆうた君は身を乗り出すようにして聞いてくれました。
さて、浄土真宗では、お念仏の教えをよく聞き、その喜びを生きた方を妙好人と呼びます。その一人に、讃岐の国の庄松という方がおられます。文字の読めなかった庄松さんは、「お経には何が書いてあるのか」と尋ねられたとき、
「ここには『庄松を助けるぞよ、庄松を助けるぞよ』と書いてある」
と答えられたというエピソードがあります。もちろん、お経にはそのままその言葉が書かれているわけではありません。しかし庄松さんには、お経の言葉が自分自身への呼びかけとして聞こえていたのでしょう。
お経は漢文で書かれているので、その意味を理解するのは困難です。しかし、そこに書かれていることは、煩悩に悩まされ苦しむ私たちを目覚めさせ、救いたいという仏の願いです。
「なあ、ゆうた」。幼い耳にそう聞こえたことは、何か大切なことを教えてくれているように思います。阿弥陀さまの願いは、計り知れないほど大きな時(那由他)を経て、この私一人に届けられているのでしょう。
お経を通して、また仏さまに手を合わせることを通して、その呼びかけに耳を澄ませていきたいものです。