
万有引力とは 引き合う 孤独の 力である

人類は小さな球の上で
眠り起きそして働き
ときどき火星に仲間を欲しがったりする
火星人は小さな球の上で
何をしてるか 僕は知らない
(或は ネリリし キルルし ハララしているか)
しかしときどき地球に仲間を欲しがったりする
それはまったくたしかなことだ
万有引力とは
ひき合う孤独の力である
宇宙はひずんでいる
それ故みんなはもとめ合う
宇宙はどんどん膨んでゆく
それ故みんなは不安である
二十億光年の孤独に
僕は思わずくしゃみをした『二十億光年の孤独』(谷川 俊太郎)
とても印象に残る言葉です。
人は誰も、自分の人生を自分で生きていかなければなりません。どれほど親しい人がいても、誰かが私に代わって老いることも、病むことも、死ぬこともできません。喜びや悲しみを分かち合うことはできても、私の人生そのものを誰かに代わってもらうことはできないのです。
その意味で、私たちは一人ひとり、根源的な孤独を抱えて生きているといえるでしょう。
けれども、「ひとりであること」と「孤立していること」は同じではありません。
仏教では、すべてのものは無数の「縁」によって成り立っていると説きます。今ここにいる私も、決して私一人の力で存在しているわけではありません。両親や家族、友人、これまで出会ってきた人々はもちろん、日々いただく食べ物や水、空気、自然、そして自分では意識することさえない多くのはたらきに支えられて、今の私があります。
普段は「自分の力で生きている」と思っていても、少し立ち止まってみれば、私のいのちは数え切れないほどのつながりの中にあることに気づかされます。
それでも私たちは、時に「自分はひとりだ」と感じます。人に囲まれていても孤独を感じることがありますし、自分の思いが誰にも分かってもらえないと思うこともあります。逆に、誰かの苦しみをすべて理解してあげることもできません。
私とあなたは、同じ人間であっても同じ人生を生きることはできない。だからこそ、人と人との間には、どうしても埋めることのできない距離があります。
浄土真宗では、そのような私を決して見捨てず、「あなたを救わずにはおかない」と願い続けるはたらきを、阿弥陀仏の本願といただきます。
それは、立派な人だから救われるとか、正しく生きることのできた人だから救われるということではありません。迷い、悩み、ときに人を傷つけ、自分自身さえ持て余しながら生きているこの私を、そのまま見捨てないという願いです。
ひとりで生きる私が、本願に出遇い、ひとりぼっちではなかったと知らされる。
孤独そのものがなくなるわけではありません。誰かが私の人生を代わってくれるわけでもありません。それでも、「この私を見捨てない願いの中にあった」と知らされるとき、孤独の意味は少し違って見えてくるのではないでしょうか。
そしてまた、互いに孤独を抱える者として、縁ある人と出会い、言葉を交わし、支え合うこともできます。
完全に分かり合うことはできなくても、だからこそ相手の言葉に耳を傾ける。相手の痛みを自分のものにすることはできなくても、その人のそばにいることはできる。
「引き合う孤独」という言葉には、そんな人と人との姿も重なって見えます。
※ここでの文章は、谷川俊太郎さんの詩を仏教・浄土真宗の立場から味わったものであり、作者自身の意図を説明するものではありません。